どこぞのドット打ちのWeb

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僕はよくジョジョを通して物事を考える。
この癖は、荒木先生を信用しているのか、ジョジョで自分が形作られたからなのかは今となっては分からない。
多分キリスト教徒が聖書から善悪を測るのに似ている。
ジョジョと善悪は切り離せない関係だろう。
多くの漫画作品は作中で作者の善悪を示唆するが、
ジョジョ、そして荒木先生の考えは違和感なく飲み込める。
違和感なく、というのは。無理なく、等身大で、カッコいいものでもなく、当然そうなのだろう、と思えるという意味だ。
しかし、悪の定義はおぼろげながら全体を通して共通するものを感じているが、
善の定義は未だに掴めていない。
そこで一度僕なりの、そのおぼろげな悪の共通項を書いてみたい。
これはジョジョにおける、というよりも、(ジョジョを通した育った)僕にとっての悪。の方が近いだろう。
それは、苦しみから逃れ結果という終端を追い求めた者だ。
反対に善は過程の中にある。
その過程から逃れ、いつかは悪になるかもしれない。
しかし、悪ではない内はまだ、、
そんな絶対的でない、危うさの中に善が存在するように感じる。
結果は過程の中に、事実という形で断続的にあるべきモノであって、
生きている者にとっては死であり、掴めるような形をしていない。
掴めたと思うのならそれは自分を悪に誘い込んでいる。
結果を求めないことではない。過程が善だ。もどかしいことに。